月を見ながら泳いだ人も、誰にも見えない居場所にした人もいた――『沼影市民プール』が残した問い
「お月様が出るとね、すごいたまんないわよ。背泳ぎとかして」
映画『沼影市民プール』の中で、利用者の女性がそんなことを話します。
そして、月についてもう一言。
「どこまでもついてくる。私たち好かれてるのよ」
映画を観終わったあと、わたしの中にいちばん長く残ったのは、この言葉でした。
公共施設の価値とは、いったい何なのでしょう。
利用者数でしょうか。維持費でしょうか。建物の新しさでしょうか。
もちろん、どれも大切です。
でも、そこで背泳ぎをしながら月を見ることを楽しみにしていた人の気持ちは、数字の表には出てきません。
みなさんこんにちは。地域情報メディア『ヨドガワウォッチ』のエリア担当ライターで、十三で浜崎鍼灸整骨院の院長をしている浜崎洋です。
映画『沼影市民プール』は、2026年9月19日(土)から十三の第七藝術劇場で上映されます。
今回は関西宣伝担当の方からご案内をいただき、オンライン試写で作品を拝見しました。

52年間で約600万人が訪れた「沼プー」

沼影市民プールは1971年、「海なき市にプールを」という市民の願いを背景に誕生した、さいたま市南区の市民プールです。
50メートルプールや子ども向けプール、全長約100メートルのウォータースライダーなどを備え、「沼プー」の愛称で親しまれてきました。
冬には屋外50メートルプールがアイススケート場として使われ、開業から52年間で約600万人が訪れたとされています。
作品を観る前、わたしが「市民プール」という言葉から想像していたものより、ずっと大きく、立派で、そして多くの人に使われてきた施設でした。
子どもたちが楽しそうに水へ飛び込み、冬にはスケートを楽しみにしている子がいる。
長い時間をかけて、行政が造った一つの施設が、人々にとって本当に「自分たちの場所」になっていったのだと思います。
こうした話を聞くと、わたしたちが暮らす淀川区にはどんなプールがあるのか、あらためて気になってきます。区内のプール事情は、以前淀川区のプール6選という記事でまとめたことがあるのですが、通年営業から夏季限定まで、それぞれの施設に積み重ねてきた時間があるのだろうと想像します。
映画は「場所の死」を見つめている
本作は、プールが営業を終えるまでの最後の日々を追った作品です。
公式資料では、この映画の構成に、精神科医エリザベス・キューブラー=ロスによる「死の受容の5段階」がモチーフとして使われていることが説明されています。
「否認」「怒り」「取引」「抑うつ」「受容」。
人を失ったときの心の動きを、「場所を失うこと」に重ねているわけです。
太田信吾監督は、人が亡くなったときには葬式やお別れの場があるのに、公共空間や建物を失うときには、なぜきちんと別れを告げる場がないのかという疑問が、本作の出発点だったと語っています。
それを知ると、これは単に「プールを残すか、なくすか」を議論する映画ではないのだと分かります。
そこにあった時間を、人がどう手放していくのか。
その心の揺れを見つめる映画なのだと思います。
説明しすぎないところがよかった
わたしがこの映画を観て最初にいいと思ったのは、観客に「ここで悲しんでください」「ここでは怒ってください」と強く迫ってこないところでした。
ナレーションで何もかも説明するわけでもありません。
音楽は使われていますが、わたしには感情を無理に押し上げるような映画には感じられませんでした。
人が話す。
子どもが遊ぶ。
スタッフが働く。
それを見ながらどう感じるかは、かなり観る側に任されています。
わたしが映画を見るときに大切にしている「やり過ぎない」という感覚に、この作品はよく合いました。
みんな、ええ人やなと思った
この作品には、プールで働く人たちの日常も出てきます。
掃除をする。
ロッカーに残された忘れ物を整理する。
最後まで利用者のために働く。
その姿を見ていて、わたしは単純に「みんな、ええ人やな」と思いました。

行政に自分の思いを伝える女性の姿も印象に残っています。
怒鳴るわけではありません。
静かに話している。
でも、その言葉には熱があります。
施設を守りたいというだけではなく、その場所で自分が過ごしてきた年月まで一緒に話しているように見えました。
みんな一生懸命。それでも、うまくいかない
この映画を観ていて、何度も感じたことがあります。
みんな一生懸命なのです。
プールを愛する人も。
働いている人も。
行政に思いを伝える人も。
誰か一人が明らかな悪者という映画ではありません。
それでも、物事はうまくいかない。
この感覚を、太田監督もかなり強く見つめているのではないかと、作品を観ていて思いました。
でも、たぶん、そういうことなのだと思います。
人は、それぞれ自分が正しいと思うことに従って生きています。
一生懸命だからといって、すべてがうまくいくわけではない。
善意があるからといって、答えが一つになるわけでもありません。
それでも人は、そのとき自分が正しいと思うことを選びながら生きていく。
その不器用さも含めて、人が一緒に暮らしていくということなのかもしれません。
地域には、いろいろな「正しさ」がある
この部分は、わたし自身がこれまで地域に関わってきた経験とも重なりました。
わたしは小学校のPTA会長をはじめ、子ども会、地域活動協議会、体育施設開放の運営など、さまざまな地域活動に関わってきました。
そういえば十三小学校では今年、開校100周年を記念した十三小学校100周年「今とむかし展」という取り組みも進んでいます。実はこの展示、わたしが取りまとめ役を任せていただくことになり、ここ最近は資料集めや当日の段取りなど、少しずつ準備に携わっている日々です。これもまた、その場所で積み重ねてきた時間を、消えてしまう前にどうにか残そうとする試みなのだと思います。
その中で難しいと感じるのは、どの意見を持つ人も、自分の意見は正しいと思っていることです。
でも、わたしはそれでいいと思っています。
子どもの立場から見れば正しい。
高齢者から見ても正しい。
施設を使っている人にも正しさがあります。
税金を負担している人にもあります。
地域から見える景色と、行政から見える景色も違います。
一つの意見が正しいからといって、反対側の人が間違っているとは限りません。
だからこそ、地域の運営は難しいのです。
「愛されている」だけでは決められない
映画を観ながら、一つだけ慎重に分けて考えたいと思ったことがあります。
このプールを好きな人がたくさんいること。
スタッフが一生懸命働いていること。
それと、公共施設を将来も維持するべきかどうかは、必ずしも同じ問題ではありません。
行政は、一つの施設だけを見て判断するわけにはいきません。

限られた予算の中で、子育て、高齢者、教育、福祉、防災、道路、ほかの公共施設など、多くのことを考えなければならないからです。
わたし自身は、この行政側から見える事情についても、映画の中でもう少し知りたかったという思いが残りました。
ただ、今回いただいた資料を読んで、その見方も少し変わりました。
この作品が最初から目指していたのは、「行政と市民、どちらが正しいのか」を判定することではなかったのだと思います。
監督が見ようとしていたのは、場所を失うことによって生まれる、人の心の揺れでした。
そう考えると、わたしがもっと見たかった部分と、この映画が見ようとした部分は、少し違っていたのだと思います。
地域は「行ける人」だけのためにあるのではない
地域活動に関わる中で、わたしがずっと考えてきたことがあります。
塾へ行ける子は、それでいい。
スポーツ教室に通える子も、それでいい。
家族でいろいろな場所へ出かけられる人も、それでいい。
地域が特に目を向けなければならないのは、むしろ、そうではない人ではないかと、わたしは思っています。
お金をかけて習い事へ行くことが難しい。
家族で遠くへ遊びに行くことが難しい。
近くに友達や知り合いがあまりいない。
それでも、そこへ行けば誰かがいる。
あまりお金をかけなくても過ごせる。
一人で行っても、そこにいていい。
公共施設や地域の行事には、そんな役割もあると思っています。
ある意味では、地域の小さなセーフティーネットです。
観たときには分からなかった「もう一つの居場所」
この映画には、男性同士の関係や性的指向に触れる場面があります。
正直に言うと、わたしは最初に観たとき、「この場面は何を意味しているのだろう」と十分には理解できませんでした。
その後、いただいた資料や作品についての情報を読んで、このプールには、わたしが知らなかったもう一つの側面があったことを知りました。
夏になると性的マイノリティの男性たちが集まり、そこに独自のコミュニティが生まれていたと、公式資料には記されています。
それを知って、作品の見え方が変わりました。
誰かにとっては子どもを遊ばせる場所。
誰かにとっては健康のために泳ぐ場所。
誰かにとっては仕事場。
そして、誰かにとっては、自分と同じような人と出会える場所だった。
しかも、その役割は行政の利用統計や施設案内だけを見ても、なかなか分かりません。
公共施設には、造った側も気づかないまま、人々が育ててきた役割があるのだと思います。
なぜ一部にフィクションが入っているのか
この部分では、それまでのドキュメンタリーとは少し違う撮り方が入ります。
本作の公式資料には、一部に演技による再構成を用いた場面があることが明記されています。
プライバシーへの配慮から、そのままでは撮影できない出来事がある。
しかし、撮れないからといって、その場所が担ってきた歴史を映画から消してしまえば、それもまた記録の欠落になる。
そこで、語りにくい経験や場所に刻まれた記憶を伝える方法として、演技による再構成を取り入れたと説明されています。
最初に観たときには意味をつかみ切れなかった場面でしたが、この説明を読んで、ようやく腑に落ちました。
「分からなかった」という自分の最初の感想も、今はそのまま残しておきたいと思います。
映画は、観ている最中に全部理解しなければならないものでもないからです。
便利になることは、いつも「よくなること」なのか
近くの店の人が、昔は周辺に何もなかったこと、駅ができて町が大きく変わったことを話す場面も印象に残りました。
駅ができる。
開発が進む。
便利になる。
普通なら、それを町がよくなったと表現します。
もちろん、それによって暮らしやすくなった人はたくさんいるでしょう。
でも、一つの町が便利になるとき、それまでそこにあった何かが消えることもあります。
「よくなる」という言葉も、どの場所から見るかによって意味が違う。
この映画を観ながら、そんなことを考えました。
「受容」は、納得することではない
映画の最後に向かって、「死の受容」の5段階は「受容」へ近づいていきます。
でも、わたしは「受容」という言葉を、すべてに納得することだとは思いません。
納得できないことが残っていても、現実は進んでいく。
思い出は残る。
寂しさも残る。
それでも、その次の日を生きていかなければならない。
たぶん、人が何かを失うというのは、そういうことなのだと思います。
みんな一生懸命だった。
それでも、思い通りにはならなかった。
それでも人は、自分が正しいと思うことに準じながら生きていく。
わたしには、この映画がそんな人間の姿まで映しているように感じられました。
こうして映画のことを考えていると、結局わたしは、自分が暮らすこの淀川区という地域のことを考えてしまいます。ヨドガワウォッチで日々地域の情報を追いかけているのも、案外、同じ場所で同じ時間を過ごす人たちのことが気になるからなのかもしれません。
そして、最後に残ったのは月だった
すべての公共施設を残すことはできません。
町は変わります。
新しいものが必要になることもあります。
それでも、効率や数字だけでは見えないものがあることは、忘れない方がいいと思います。
家族や友人と一緒でなくても行ける場所。
誰にも説明しなくても、そこにいていい場所。
知らない誰かと、いつの間にか同じ時間を過ごしている場所。
そういう場所も、町には必要なのだと思います。
私が住む十三でも、ここ数年は街並みがびっくりするようなスピードで変化しています。街並みだけでなく、地域に携わる面々の顔ぶれやルールなども、大きく変化していることを実感します。
映画を観終わったあと、わたしにはやはり、月を見ながら泳いでいた女性の言葉が残りました。
「どこまでもついてくる。私たち好かれてるのよ」
その人にとって沼影市民プールがどれほど大切だったのか。
長い説明よりも、この一言の方がずっとよく分かる気がします。
公共施設の価値というものは、案外、こういう言葉の中に隠れているのかもしれません。
『沼影市民プール』は9月19日から十三・第七藝術劇場で上映

映画『沼影市民プール』は、2026年9月19日(土)から十三の第七藝術劇場で上映されます。
9月19日は12時15分の回上映後に、太田信吾監督によるトーク・舞台挨拶、サイン会が予定されています。
上映時間やイベント内容は変更される場合がありますので、来館前に第七藝術劇場の上映情報ページで最新情報をご確認ください。
十三の第七藝術劇場では、以前観た作品について『マイ・リトル・クイーンズ』十三上映レビューという記事を書いたこともあります。ふらっと立ち寄れる映画館が地元にあるというのは、それだけでありがたいことだと感じています。
一つの市民プールの映画ですが、観ながら思い浮かぶ場所は、きっと人によって違います。
なくなってしまった公園かもしれません。
昔よく行った商店かもしれません。
学校や銭湯、喫茶店かもしれません。
自分にとっての「帰れる場所」とは何なのか。
そんなことを考えさせてくれる映画でした。
※本記事は映画『沼影市民プール』関西宣伝担当者からオンライン試写および作品資料・画像素材の提供を受け、実際に作品を鑑賞したうえで執筆しています。本文中の感想・意見は筆者個人のものです。
映画『沼影市民プール』/2025年/日本/監督:太田信吾/企画・制作:ハイドロブラスト/配給:NAKACHIKA (c) hydroblast












